#6 無駄なこと
生かすも殺すも自分次第
私は山手線一周を徒歩で巡るという行為を後輩と2人で行ったことがあります。
眠くて意識が消えかかったり、足がどんどん重たくなっていく中で16時間ほど歩き続けることはなかなか大変でしたが、終わったときに見た朝日や解放感にはあの場にいた人にしか分からない感動があり、やってよかったと本当に思いました。
このことを友達に話すと「よくやり切ったね」「すごいね」という他に「なんでやったの」としばしば言われます。そういうとき「面白そうだったから」と返すと、だいたい不思議そうな顔をされるか「絶対無駄じゃん」と言われます。
このときの「絶対無駄じゃん」に違和感を覚えたので、無駄について考えていきたい。
無駄に見える=価値観の違い
このとき不思議そうな顔をした人や「無駄」と言った人は、山手線一周を歩くという何もメリットがない行為を、何時間もかけて行うことのなにが面白いのかが分からなかったのだと思います。その一方で私は面白そうだと感じ、実際に歩いてみてもやはり面白かったという感情が残りました。
つまり私にとっては価値があっても、相手にとっては価値がなかったのです。そして人によって趣味嗜好は違うのでこのようなことは普通に起こります。
実際、私にも他人がする行為で無駄だなと思うことがあります。それはインスタ映えする写真を撮るために時間やお金をかけることです。ただ、これらは私が無駄だと思うだけで本人たちにとっては十分娯楽になるコンテンツなのでしょう。私とインスタグラマーの価値観が違うためにこのような認識の違いが起こります。
人から見たら無駄な行為でも、本人にとって満足できる行為ならそれは無駄な行為ではないと言えます。
無駄なこと
そう考えると「無駄なこと」というのは自分自身が何か行動を起こして、その行動を自ら「無駄」と考えたときにのみ発生するのではないでしょうか。
極論、自分が無駄と考えなければ、自分の行動に無駄なものはなくなると言えます。少なくとも他人から自分の行動を無駄と定義される筋合いは全くありません。
自分の行動全てに意味付けして、自分が無駄と感じることを無くすのは困難ですが、もしもできたら個人の幸福度はかなり上がるのではないかなと思います。
無駄=個性
私自身が一般的に無駄と言われがちな行為に人一倍取り組んできた人間だからかもしれませんが、人生を彩ってくれるのは一般的に「無駄」と言われがちな行為なのではないかと思います。
なぜなら、一般的に無駄ではないこと=「普通」だからです。普通のことはみんなやっているので、そこで人と違いを生み出すことは難しい。
逆に、普通ではないこと=「無駄」はあまり人が行っていないので、ここをどのくらい取り組むかによって、その人の人生は個性的なものになっていくのではないかと思います。
私は今後も「無駄」に取り組んでいきたい。
他の奴の意見なんて知ったこっちゃないぜ☆
おわり☆