#4 年越しそばから見る習慣のデメリット
アツアツのそばに七味をたっぷりとかけたい
みなさんは年末をどのように過ごしているだろうか?
久しぶりに実家に帰省して両親に顔を見せたり、自宅でテレビを見ながらゆっくり過ごしたり、あるいは長期休暇を使って旅行に出かけている方も多いかもしれません。
人それぞれ様々な年末を過ごしていると思いますが、意外と毎年決まった年末の過ごし方をしている人が多いのではないでしょうか。
かくいう私も年末は家族と一緒に過ごし、近所のそば屋で夕食をすましてから友人と合流し、神社の中で年越しをするというのが毎年のお決まりとなっています。
そんな中で、今回私が注目したいのは
習慣のデメリットについてです。
私は物心ついた時から31日の夜は家族と一緒にそばを食べてきたのですが、今年は朝から友人と出かける予定があり、夜も一緒にいたので友人と夕食を食べることになりました。
夕食の話が出たときに近くのお店を見渡してみるとそば屋と松屋があり、そのどちらを食べるかという話になりました。
今考えると不思議で仕方がないのですが、私は友人のうち一人があまりそば好きではないことを知っていながら、そば屋を強く推していました。
最終的には松屋に行くことになったのですが、普段はもっと周りの状況を見て判断を下しているのに、この日はどうしてあのような行動をしたのか考えてみると、31日の夕食にそばを食べることが習慣になっていることが原因であり、習慣の悪い影響だと思いました。
柔軟な考え方ができなくなる
今回私がどうにかして友人を巻き込んでそばを食べようとしたように、習慣のデメリットとして柔軟な考え方ができなくなることがあります。その結果、自分の中での当然を人に押し付けて相手を困惑させることや、単純に自分が損をすることがあります。
日常の中でいうと飲み会の最初の一杯はビールという縛りや、忙しいときについSNSで時間を消費してしまうことが挙げられます。
前者なら他の物を頼みたい人はいないか確認する、後者なら携帯を見えない場所に置いたり、物理的に触れずらい場所に置くなどなどが考えられ、冷静ならばそのような対応ができると思います。
また、日常的ではないですが私が特に習慣のデメリットを感じたのは「就職活動の手書きの履歴書」です。
パソコンで入力した履歴書の方が就活生は作成しやすく修正もできる、会社からしたら見やすいうえにデータで提出をお願いすれば管理がしやすいというメリットがあります。
それにもかかわらず、いまだに世間では紙の履歴書が主流となっています。
これは社会が習慣に飲まれて柔軟な考えができなくなっている本当に良い例だと思います。
どんな人も習慣としていることや、何となく続けていることをいくつか持っていると思います。それをふとした時に他人に押し付けていないか、自分にとってマイナスになっていないか、ときどき行動を振り返ることが日常をより豊かにするために必要だと感じた年末でした。
おわり
#3 遊びVS勉強~時間を割くべきはどちらだ~
私が中学生のときなんて、休みは友達とモンハン(2G)しかしていなかった。
私は学習塾の講師のアルバイトとして働いていた時期があったのですが、あるとき中学生の生徒に何気なく「クラスの中でどのくらいの人が塾に通ってるの?」と聞いてみたところ、「約8割が通っている」という答えが返ってきて非常に驚いた。
ふと自分の勤めていた学習塾の周りを見てみると、少子高齢化にもかかわらず学習塾が他に3件も存在していました。
そんなことから最近の子供の通塾率が気になり調べてみたところ、文部科学省のホームページで学校の種類別学習費総額を調べた結果が掲載されており、塾などの補助学習費に関する結果が以下の表のようになっていました。
|
公立 |
私立 |
幼稚園 |
塾に通っている割合:11.6% |
塾に通っている割合:13.3% |
小学校 |
塾に通っている割合:37.8% |
塾に通っている割合:69.1% |
中学校 |
塾に通っている割合:68.9% |
塾に通っている割合:54.8% |
高等学校 |
塾に通っている割合:35.4% |
塾に通っている割合:43.6% |
私立に入学させる子供の親は、子供への学習期待が高いと考えられるので通塾率が高いことも納得だが、公立の小学校に通っている子供の約37%、公立の中学校に通っている人の約68%が塾に通っていることは驚きました。
中学生以下の子供が塾に通うことを自ら希望することは稀だと思うので、ほとんどが親の意向で塾に通っているのだと考えられます。子供にとって塾に通わされるのはいい迷惑かもしれないが、幼い時から勉強を頑張って偏差値の高い学校に行くことで多くの優秀な友人と知り合えたり、自分の学力を高めるのに適した環境が手に入り、これらは自分の将来の可能性を大幅に広げてくれます。
しかし、小中学生の通塾率が高いことは必ずしも喜ばしいことではないと私は思っています。それはなぜかというと、塾に通うことは子供から遊びの時間を奪うことであり、子供時代の遊びは人生の中で非常に大切なものだと思っているからです。
私は子供時代に遊んだ経験に今でも助けられている。
例えば、初対面の人と昔流行ったゲームの話で盛り上がったり、昔遊んでいる中で起こった無茶苦茶なエピソードで場を盛り上げたり、遊びの中で生まれた行動や考え方が自分の発言や所作の一部になり、個性の一つとして周りに認識されているものもあります。
私がもしも親に塾に通わされていたら、多少学力は上がってもここまでの経験はできておらず、人間的にいまひとつ面白味が足りない人間になっていただろう。今もそこまであるとは思っていないませんが…。
遊びは子供の個性や興味関心、才能を確実に引き出してくれる。
それらは勉強と同じか、それ以上に子供を助けてくれることになる。
ここまで遊びのメリットを述べましたが、遊んでばかりで全く勉強をしなければそれはそれで日常生活に支障をきたすし、勉強はできたほうが何かと得なのは間違いない。
かといって勉強ばかりでは無個性な人間になってしまうし、そもそも勉強が肌に合わない子供もいる。 つまり遊びと勉強のバランス、子供の興味関心、これらを考慮した親の手助けが必要です。
幼い子供はどんな選択がどのよう未来につながっていくのかあまり分かっていない。だからこそ人生の道をある程度提示してあげる必要があります。
しかし、そこに付け込んで親の希望の将来を押し付けてはならない。
親がどんな大人になってほしいかを押し付けるのではなく、親の「どんな大人になってほしいのか」と子供の「どんな大人になりたいか」を一緒に考えていくことが理想だと思います。
おわり
#2 -卒論-学生の意欲を妨げる敵
ブログ久々過ぎんか、ワシ…。
ブログは苦手であると公言しつつも、さすがにこれほど放置する予定ではありませんでした。
これほどブログを放置することになったのには理由があります。
卒論です。
卒業論文(そつぎょうろんぶん)は、大学(短期大学を含む)および高等専門学校に所属する主に最終学年の学生が、その最終学年の一年間を通して行う「卒業研究の成果として提出する論文 」のことである(期間や、方法が異なる場合もある)。一部の高等学校や中学校にも科しているところがある。略称は、卒論(そつろん)。
(Wikipediaから引用)
つい最近まで学業、アルバイト、遊びの合間を縫って、インタビュー調査や文献を読み込んだり、卒論の執筆を行っていました。
「遊びの時間を割けよ」という話ですが、
人間はそこまで合理的にはできていないらしい…。
そして、卒業論文を書き終えた今、
卒業論文は本当に必要だったのか、私は疑念を抱いている。
大学を卒業した後、多くの人が社会人になり、一部の人は大学院に進むと思います。
大学院に進む人にとっての卒論は、大学院に進むためのチェック材料にもなる上に今後の学習の糧になるので必要と言えます。
しかし、社会人になる予定の学生に卒業論文は必要であるとはあまり感じません。
私がこのように感じるのは、今と昔の学生の違いから生まれるものなのではないかと思います。
昔は専門的な分野をより極めたい人が大学に進学していましたが、
私は入学した学部の内容に興味はあるものの、どちらかというと就職のために大学に進学しました。
そのため、卒業論文のような一テーマに何か月もかけて研究することに違和感が生じたのだと思います。
要するに、私が場違いな場所に入学したのが問題であり、場違いな人間がそこのルールに対して文句を言っているだけと言えます。
しかし今のご時世、大学に進学しなければ一般的な就職の流れに乗ることもできません。
場違いな人間が大学にいることが間違っていることは分かるのですが、もはや大学には場違いな人間も大多数進学しているし、そうしなければならない事情があります。
それでは結局どうすればいいのか、私は卒業制作が必ず論文という現状を変えればいいのではないかと思います。
聞いたところによると、経済学部には卒論提出が必須ではない場合が多いらしいが…
どういうことやねん。
現在の大学には社会人予備校のような側面が強いので、卒論の代わりに何かスキルを身に着けたり、特定の資格の所得が必須という選択肢があれば、就職志望の学生のニーズも拾えると思います。
世の中の様々なことが変化しているのに、大学はいつまでたっても卒論卒論卒論…
一学生の卒論に対するストレスから生まれた我がままな戯れ言に過ぎませんが、
大学も現代のニーズに合うような形に変わっていくことが必要であると卒論を書いていて強く感じました。
結論:経済学部が羨ましい。
#1 ブログを始めるにあたって
まさか私が本当にブログを書くことになるとは…。
私は文章を書くことは基本的に苦手である。
感想文を書くことを求められれば、まず初めに最低文字数を確認してため息をつき、次に〆切日を確認しては先生に悪態をついて、最低限度の出来のモノを締切日に提出することが常である。
また、人に情報を発信することも得意ではなく、人と話をするときは基本的に聞き役に徹し、
「相槌」「質問」「繰り返し」
のたった3枚のカードだけを使って生き抜いてきた。
改めて考えてみても、これほどブログを書くために必要なスキルを持ち合わせていない人間も珍しいのではないかと我ながら感心している。
そんな私がなぜ、ブログに手を出そうと思ったのか、その理由は2つほどある。
一つ目は
自分の好きなことを巧みな話術で発信する人たちが羨ましかったからである。
先ほども書いたように、私は基本的に聞き役に徹してあまり自分の話はしない。
だが、それは別に話したくないから聞き役に徹しているわけではない、
“話せないから話さない”のである。
というのも、私も様々なことに興味関心を持つし、多くの出来事に遭遇する中で“めっちゃこのこと話したい!”という感情に襲われるときはある。
稀にその勢いのまま思い切って人に話をしてみるのだが、他の人のように人を引き込むような話ができないので、自分の感情を言葉にしきれずモヤモヤだけが残ってしまうし、相手にもいまいち伝わらない。
その結果、自分の話をするよりも人の話を聞いている方が楽しいし、楽なので聞き役により徹するようになってしまった。
そんな聞き役ライフを送ってきた私だが、訳あって話が上手い人と接する機会が増えたこともあり、自分の中の勢いに任せて話をしたい欲がふつふつと湧いてきた。
そこで前から噂には聞いていたブログを使って、自由気ままに自分の話したいことを発信してやろう!と思ったことが、ブログを始めようとにした一つ目の理由である。
もう一つが、
仲のいい友人の影響である。
実をいうとブログはかなり昔に始めようと思っていた時期があり、実際サイト運営の勉強をしたりホームページを作成したりしていた。
そのことを仲のいい友人には伝えると同時に、軽い気持ちで「一緒にやろうぜ」とか「絶対面白い記事が書けるよ!」などと語りかけていた。まさか始めるとは思っていなかったし、実際私も勉強の段階で心が折れてブログを始めることを辞めてしまった。
しかし、そんな私にブログを誘われた友人は、ブログの一年間毎日投稿を先日やり遂げたらしい。
その報告を受けて非常に嬉しかったし、彼にブログというきっかけを与える役割を担えたことは非常に誇らしいことであると感じた。
それと同時に、一年間ブログから逃げてきた自分が浮き彫りになった。
一度始めると宣言して、巻き込んだ友達が偉大な記録を残しているのに、投げ出したままはよくないと感じた。
「やらなかった」ということで後悔を残さないために少しずつでも始めてみよう。
これが二つ目の理由である。
ここまで書くのにもすごく時間がかかったし、記事の内容もなかなか上手くまとめられない、やはり私はブログを書くためのスキルは持ち合わせていないようだ。
だが、思っていたよりも記事を書くことは楽しかった。
自分の意見をどこかに発信することはとても楽しいなと改めて気づくことができた。
きっと箸にも棒にもかからない記事ばかりになるだろうが、のんびりとブログを続けていこうと思います。
まずは目標10記事!!